水道検針日記(199Y年10月7日)~あんたに言ったってわかんないよ

さっき、去年の今ごろの水道検針はどんなだったかなと思ってその頃の分を読み返してみたら、9、10月とほとんど丸々二ヶ月何も書いてなかった。7,8月書いただけで飽きてしまっていたのだ。しかし、読者から35万3921通もの再開を望むメールが来たのでまた始めたとある。そんなにメールが来ていたのか……。

今日の天気予報は午後から雨とのことだったので、本格的に雨が降り始める前に検針を終えてしまおうと、今日はなんと9時前に出勤。平均すると10時過ぎなのを考えると通常より1時間も早い(よく考えたら別に大したことじゃないな)。

1時間早いと登校する中高生の姿を見掛けるし、駅の中にも9時半頃と比べて3倍くらい人が多い。しかも8時台は人々の歩くスピードが速い。いつだったか、サンコンさんのお母さんがギニアから東京に来て、あまりに早く人が歩くので戦争が始まったかと思ってかなり慌てたという話を聞いて笑ったことがあるんだけど、今日、久しぶりにラッシュの時間に電車に乗ってその気持ちが少しわかる気がした。

利用客の歩く早さはもちろん、特にその表情が皆一様に緊張気味というか、余計なことに構ってなんかられないという風にどこか険しいのだ。日頃、ラッシュがすっかり終わった時間帯に電車に乗るのに慣れていると、通勤時間帯の人々の動きの早さとその無駄のなさには違和感を感じる。

今日の最初の現場はU町220件。ここは前回2時間で終了させて感激したところだ。今回は足がまだ悪いながら2時間10分で終えた。次のR町が150件で2時間20分もかかったことを考えると、いかにアパートが多いと検針が楽か、反対に一戸建ての住宅街は長く歩くことになるかよくわかる。

 

U町が終わって、R町に行く前に昨日検針した場所の再調査に行った。一件、板塀に囲まれたお屋敷風の家があって、昨日留守で検針できなかったので、今日も行った。そこはいつも70代半ばの疲れた様子ばあさんが出て来て木戸を開けてくれる。

このばあさんには検針するたびに会っているのだが、いっつも表情が暗くて視線も合わせず、「はい」とか「どうぞ」以外ほとんど何もしゃべらない。僕がメーターを見ているときは、ばあさんは落ち着きなく憂鬱な顔で草むしりなんかしている。

大抵のところでは「今日はよく晴れてよかったわねぇ」とか「暑いのに大変ねえ」と軽い挨拶くらいするものだが、そこのばあさんは愚痴みたいなこと意外何も言わない。

今年の初め、いつもよりさらにメンドウくさそうに「どうぞ」と言って木戸を開けてくれて、僕が検針を終えて「おしらせ」という料金などが書かれた紙を渡したら、軽く笑いながら「もうねえ、検針が来るたびに私ゾッとしますよ」とばあさんが言った。

僕はよく意味がわからずに「え?」と言うと、彼女は同じことをもう一度言った。一々木戸を開けるのはメンドウなのはわかるけど、ゾッとするはないよなあ。それで僕は「ああ、そうですか。同じですよ。僕もこの家に来るたびにゾッとしちゃうんですよ。奇遇ですね。わはは」と言ってやった。ざまあみろだ。

 

僕が担当するR町の区域は川沿いで、土地が低い地帯なのであまり家がなく、ここら辺では住宅密度が低い。従って上にも書いたように歩く距離が長い。反面、こういう所ならではの、林や空き地なんかが多くてそれで和(なご)むと言えば和むことができて楽しい。

この冊の終わりのある家でメーターがゆっくり回っていて、漏水かと思って聞いてみたら台所から水が流れていただけだった。以前、この家で比較的大きな漏水があったので、またかと思ったのだ。

一度漏水したところは、全体的にパイプが腐りやすくなっているので、何回も起こることがある。その以前漏水したのはもう2年も前で、水量がいつもの3倍にもなっていたから、その旨を告げにベルを鳴らしたら、縁側に一人のじいさんがいた。その時、家にはじいさんしかおらず、漏水修理などのことは息子が帰ってくるまでよくわからないとのことだった。

老人の常にして、彼も寂しいらしく、何かしら僕に話をふってきた。僕も、それでその日の仕事が終わって、あとは帰るだけだったから世間話につきあうことにした。彼は90才で、年をとって仕事を引退してからは趣味が大切だと言われていろいろやったが、結局、脚も悪くなるし、せっかく盆栽を作っても力がないから満足に鉢も持てなくて、趣味も続けることができないとボヤいていた。

90才にしてはかなり頭ははっきりしている。話がくどくなることもない。90才という年齢から、彼も戦争に行ったのかな、と思って、思い切って訊いてみた。老人は「ああ、行ったよ」と言って、軍隊時代の写真と日の丸に寄せ書きをしたものを押し入れから出して見せてくれた。

その写真は老いた現在の姿からは、あまり想像がしにくい程がっしりとした骨太の体格で、かなり気の強そうな顔をし、日本刀を地面についてそれを両手で支えるポーズをとっていた。

日の丸のほうは「武運長久」や他の文句の他に中国語で何やら書いてあり、それは「支那軍」と戦ったときに相手を殲滅して通訳の「支那人」から感謝の言葉を書いてもらったらしい。老人はあまり乗り気でないものの、ちょっと強引に話を聞くと、彼は1937年に上海から中国に上陸し、南京まで行っていた。

ちょうど南京大虐殺の頃だ。戦争はどんなだったんですか? と訊くと、老人はうつむき加減になって「あんたに言ったってわかんないよ。そんなに簡単に口で言えるもんじゃないんだから」とポツリと言った。

僕は内心では、中国でたくさん人を殺して村を焼いて、女を強姦した、という答えを期待していた。多かれ少なかれ大半の日本兵は戦地でひどい行いをしているはずだからだ。しかし、その時、それ以上僕は戦争のことは訊けなかった。老人が中国で何をしたかは別にして、現在に至るも60年近く前の過去のことが彼にとってはいまだに生々しい出来事であるらしいからだ。

今日、その老人の姿を縁側のガラス越しにチラリと見た。車椅子があったので、2年前より脚が悪くなっているみたいだ。もう老人も92才。いつかまた話をしたいと思いながら、勇気がないこともあってその機会がない。

 

先日、「プライベート・ライアン」という話題の映画を観た。これは父親がヨーロッパで連合軍兵士として戦ったスピルバーグ監督が、子供の頃から聞いていた戦争の話をいつか映画にしたいと想っていたものらしい。ストーリーとしては大した起伏やひねりがあるわけではなく、全体の半分近くがリアルな戦闘シーンで占められている。

あまりにリアルすぎて苦しくなるくらいだった。この映画については「キネマ旬報」では反戦映画だという見方もあったが、僕は、スピルバーグは全然そんなことは考えてないと思う。いくら苦しく、多大な犠牲をともなうものであっても、守り、勝ち取らねばならないものがあるというのが欧米の(というより日本以外の大半の地域の)考え方だからだ。戦争はしたくない。

しかし、ナチスの侵攻も、その思想も許すこともできないなら戦うしかないだろう。結局、スピルバーグの言いたいことは、過去の歴史に埋もれた(あるいは埋もれようとしている)巨大で過酷だった出来事において、まずその事実を知り、それに関わった人々の想いを理解して欲しい、できれば彼らの悲しみに共感して欲しいということだろうと思う。自分の父たちが命懸けで達成したことが、簡単に忘れ去られて戦死した兵士や、今も生きる元兵士たちに敬意が払われないことが耐え難かったんじゃないかと思う。